東海大学爆破予告から見るリスクマネジメントの重要性
東海大学は9月19日、同校の湘南校舎に対して爆破予告があったとして、3時限目以降の授業を休講にすると明らかにした。
12時42分、東海大学教学部湘南校教務課からの学生への緊急通報が行われた。
学生には落ち着いて校舎内から退避し、決して建物内には入らず、帰宅するよう指示し、クラブ活動はすべて中止とした。
学生たちは、大学からの緊急通報をTwitter等に投稿し、ネット上では、駅に向かう学生の歩く様子をディズニーランドのようなどと称し、駅のホームの溢れるばかりの人波を掲載する人もいた。
同日16時には、大学HPにて、「爆破予告について、安全確認ができた」とのお知らせを掲載し、翌日からの平常授業開始を告知した。
同16時7分には、当大学学生宛に、教学部長より爆破予告の顛末について、午前11時40分ごろ、平塚警察署より、東海大学湘南校舎を爆破するというTwitterの書き込みがあったとの連絡により、全授業の休講を決め、キャンパスからの避難誘導を行い、警察との調査により、爆破予告は、悪質な悪戯と判明し、キャンパス内の安全確認が取れた15時10分に、避難指示を全面解除したという通達が行われた。
平塚署では、警察官約40人が東海大学湘南キャンパスの捜索を行い、爆発物などの不審物を調査した。
19日は夏休み明けの初日でキャンパスには2万人ほどの学生がいたと予想される。
ネット上では、休講を喜ぶお祭り騒ぎの東海大学学生のTwitter等を並べ、不謹慎という批評を行う人々が多く、すでに悪戯と判明した現在も、どんどんと、「東海大学爆破予告で休講!」というツイートが拡散されている。
すでに、終結したものが拡散されることによって、大学側への余分な問い合わせ等も行われ、一般人の興味本位な無責任な目の前の事象への検証のないままに、何の疑問も持たず他人へ広める行為には、逆に危機感を持たざるを得ない。
公のTwitter(おそらく本人は、軽い気持ち、少しの目立ちたい思いであったかもしれないが)で、悪質な悪戯といえる行為は、もちろん二度と繰り返させない厳重な処罰は必要であろうが、安易な拡散をする人々も、第二、第三の悪質な悪戯、あるいは、ほんものの犯罪者を生み出す、無意識で無責任な加担を犯しているかもしれない脅威を感じるべきでもあろう。
大学側も、警察からの連絡を受け、これまでのストーカー対策等においても、知っていて対処できなかったが故の反省も込め、1%の危険があれば、見過ごすことはできないということからの全面休講を選択したのだろう。
ビジネスプロデューサーは、常に、一般人がやらないような挑戦をする。
それは、自らに枠を作り、「できない」「無理だ」という、一般人の不可能と思う事柄に対し、なぜ不可能といわれるのか、その原因を探り、一つずつ不可能を潰すことによって、可能にしていくからだ。
一般人は、可能性を潰し、不可能な言い訳をみつけ、その言い訳に安心して、やらない自分を正当化する。
今回のような事件があった場合、それを、第二、第三の犯罪を起こさないためのセーフティネットを築くのが、ビジネスプロデューサーだ。
たとえば、今回、Twitterに流れた大学からの通達は、HP上に記載された一般公開されたものではなく、緊急の対応策を、自らが預かる学生に向けて通達したものである。
学生には、そうした私信と公表の違いを入学時に教え、そうしたことさえ身についていない人間は、大学に所属する資格の有無を含め、罰則を与えるというような、明確なルール作りを行うべきであろう。
さらに、地震国家でもあり、日本もテロとは無関係でいられない社会情勢の現在、防災の重要性を身近に考え、防災対策の一環としても、今回のような爆破予告といった想定外のことも、ルール作りを行うべきだろう。
産業能率大学では、地震防災対策措置として、非常にきめ細やかな対応策を公表している。
地震が発生した時に、どのような状況であるかというシュミレーションを的確に記している。
・東海地震の発生が予知された時
・授業時間中
・授業以外
・課外活動中
・通学途中
・登校や下校が不可能な場合
また、授業の再開の目安や、広域避難場所、災害用伝言ダイヤルについてなど、実際の現場を想定して、必要な事柄を出来るだけ丁寧に記載している。
ビジネスプロデューサーの企画書も同様に、「無駄、漏れ、ダブリ」の無い、シンプルでかつ重要事項を落とすことなく、他者に伝えるためのプランニングを行う。
今日の、悪質な悪戯に便乗してお祭り騒ぎで、誰かを責めることで溜飲を下げるのではなく、次に同様のことが別の大学、別の場所、あるいは、国家としても、起こった際に、想定外という言葉で逃げることなく、この事件を自分達が置かれた立場に置き換えて、生かしていくことが必要だろう。
ビジネスプロデューサーの視点は、常に、そういう視点をもって歩いている。