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服部学園 戦前から日本を支えてきた料理人魂が食文化を守る!

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11月11日(土) ・ 12日(日) 学校法人 服部学園 服部栄養専門学校(厚生労働大臣指定・専修学校認可)にて学園祭が開催された。

最寄り駅の 代々木駅 東口を降りると、入場誘導がされていた。

第60回目の学園祭ということで、同窓生、近隣、また遠くからも多くの方が訪れ、

「食」の大切さと、「食文化」が多くの人たちから愛されていることを実感した。

 

本年、平成29年6月23日に、第193回国会(常会)において

「文化芸術振興基本法の一部を改正する法律」が成立し、平成29年法律第73号として公布、施行された。

加計(かけ)学園を巡る与野党の対立の陰に隠れて、ほとんど注目されなかったが、国会閉会直前の16日、参院本会議において

「文化芸術振興基本法の一部を改正する法律」(文化芸術基本法)が、全会一致で採択、成立した。

グローバル化の現代。

日本の将来を考えた時、非常に重要な法律だと思われる。

 

服部学園 食育

 

「食育力」と題し、服部幸應校長(理事長・医学博士)が、この法律の成立に、多くの料理人たちが尽力したこと
(写真撮影不可のため、「食育力」のテーマ看板のみ掲載)
について語ってくださった。

「食」をはじめとする教育について、義務教育としての小学校からでは遅いくらいで、
幼児教育の重要性(筆者も我が子育ての経験から、幼児教育が人間形成に大きく関わることを実感しており、何度も服部校長の言葉に頷くこと多しであった)も訴えておられた。

「食」についていえば、

日本のここ100年の食文化の中では、1965年から1985年の20年間の和食洋食のバランスが、日本人にとって最も良い食生活を送っていた とのお話であった。

食事の 75%が炭水化物摂取であり、江戸時代の文献などには、江戸から京都まで、こうした食事だからこそ、エネルギーを蓄え、飛脚は18時間で走っていたということが書かれているそうである。

当時、欧米の食事が日本に入ってきたということで、試しに、粉ミルクやチーズ・バターなどを主にした食事を2週間食べさせたところ、
飛脚たちの元気がなくなり、走ることにも支障が出たという話も載っているとのことで、
炭水化物を主食にした食事は、栄養素的にも、体型的にも、上記の時代の頃が、非常によいバランスであったのだというお話をされた。

 

また、現在、料理界では、労働環境の改善ということで、食材から料理内容、衛生までに気を使い、すべてにプロフェッショナルであろうとする料理人は、どうしても、朝早くから夜遅くまで働くことになる。
流行語を使えば、いわゆる「ブラック」といわれるそうだ。

こうした労働改善のために、服部校長としては、料理人の有給休暇を、法律の20日から3倍の60日に増やし、仕事の大変な分を休日でカバーするなど、

21世紀の料理人の働き方の変革を考えていく時期であるということも言われていた。

 

食育の面にも、大きな課題を感じておられるとのことであった。

食事は大勢で楽しくいただくことが重要で、「幸せホルモン」「愛情ホルモン」といわれるオキシトシンというホルモンの大切さをお話くださった。
特に、赤ちゃんへの授乳の重要性と、母子による声掛けや目を合わせるなどの大切さ。
エサのように食事を与えるような食事事情ではなく、心が豊かになるような食生活が、料理を作るだけでなく、

「食育」

として大切なことであることを、多くの人に伝えていきたいということであった。

 

服部校長のお話は、出産・育児を経験した多くの女性たちには、実体験としてエビデンスを提供できるのではないかと思われる。

家庭での「食」を含めた食文化が日本が世界に誇れる食育であることも、

農林水産省が定めた GAP(Good Agricultural Practice:農業生産工程管理)の徹底も、

2020年のオリンピックに向け、準備が必要であることもお話された。

GAPとは、農業において、食品安全、環境保全、労働安全等の持続可能性を確保するための生産工程管理の取組のことをいい、オリンピックの選手村では、有機野菜を提供することが決まっているとのことだ。

 

 

「フランス料理の神髄」 三國清三氏(オテル・ドゥ・ミクニ オーナーシェフ)

三國清三

 

オテル・ドゥ・ミクニのオーナーシェフ 三國清三氏による料理講習会では、フランス料理の歴史の講義をお聞きしているかのような、非常に興味深く大きな学びとなった1時間であった。

三國氏は、北海道増毛町生まれで、最初に彼の生い立ちのビデオが流れた。

「自分のルーツを改めて確認することで、どす黒くなりそうな自分をピュアな自分に戻すのですよ」と、冗談めいてお話する姿には、常に「貧しさから料理人として生きることになった自分」の仕事に対して、傲慢な人間になりたくない!なってはならないというココロの誓いのような姿勢を感じた。

三國シェフがお話くださったフランス料理の神髄については、後日、フードプロデューサーをはじめとする飲食関係の方がたのために、改めて記事にしたいと思う。

 

学生によるランチョンセミナー

服部学園 学生

 

服部栄養学園の学生の方によるランチョンセミナーは、盛りだくさんの試食と共に、栄養について詳しくお話をいただいた。

加齢とともに「低栄養」(エネルギーとたんぱく質の欠乏により健康な体を維持する栄養素不足の状態)になりがちな方々への食事について、わかりやすい説明と、高齢者にも食べやすい食物の酵素を活かした柔らかなお肉調理をデモンストレーションで見せていただいた。

 

低栄養

 

栄養士科学生の皆様が作ってくださった メニューは

  • 2種のおむすび(さつまいも・しらす)
  • 松風焼
  • 根菜とひじきのきんぴら
  • 酢の物(きのこの酢の物の意外な美味しさに驚き)
  • かぼちゃの茶巾絞り
  • 大福茶(おおふくちゃ)お正月に飲まれる無病息災の願いを込めた縁起の良いお茶

光の影響で団らんの雰囲気が変わる(あたたかな光色だと皆で楽しく感じる)など、食を楽しむ方法なども学生の皆様から教えていただいた。

 

学生さんにインタビューをさせていただき、

「料理人として自分の店をもてるようになりたい!」

という声や

「先生がたから、多くのことを吸収して、自分のオリジナル料理を作りたい」

という言葉に、夢と希望をもった彼らの中から、世界に誇れるフードプロデューサーが誕生してくれるのではないかという期待を感じた。

 

三國シェフの「フランス料理の神髄」のお話の中では、フレンチと日本の食文化と融合させた

ムッシュ村上と呼ばれた 村上信夫氏(日本でフランス料理を広めた功労者。帝国ホテルの料理長を26年間務め『きょうの料理』の名物講師として家庭へプロの味を広めた。バイキング方式を日本で初めて行った)との思い出を通じ、

村上氏が、戦前からフランス料理を学び、日本食の文化の中に、見事にフランス料理と、「シェフ」というプロフェッショナルな仕事を生み出した、料理界のビジネスプロデューサーの姿を感じさせていただいた。

 

村上信夫 小幡勲夫 ムッシュ村上

 

実に個人的なエピソードで恐縮であるが、筆者の父は、村上信夫氏が、家庭にもフランス料理を・・・という志で始められた料理会に参加させていただいていた。

その際に、

「人生で一番幸福なことは健康であることだ」

と、ムッシュに書いていただいた色紙を、末期がんと闘う父は、リビングに飾り、毎日拝見している。

ムッシュ村上の傘寿のお祝いの際、足腰を傷めていらしても、シャンとして歩まれる姿に胸を打たれたと幾度も教えられた。

 

日本の料理界を変えたムッシュ村上

1964年の東京オリンピック以前の料理界は完全な徒弟制度であった。
そのため、料理のレシピや技術の交流も進歩もなかった。

ムッシュ村上は、東京オリンピックの際、各国選手たちに好みの食事を出すため、
日本に訪れた世界中の料理人、選手にレシピを伝授され、日本の料理は格段に進歩した。

ホテルオークラの小野寺氏と帝国ホテルのムッシュ村上の二人がアレンジし、
それらを、あますことなく多くの料理人にレシピを伝え、東京オリンピックは成功した。

この時の料理人たちは、オリンピック後、全国に散り、現在の日本の料理界を作っていったのだ。

 

小野寺氏とムッシュ村上は、

みんなで作った物はみんなで分けよう

という志をもっていた。

テレビで家庭でもできるフランス料理番組に出演したことも、レシピを公開し、料理人の数を増やし、日本料理界の底上げを目指したからであった。

小野寺氏は、あくまでプロフェッショナルな料理に拘り、プロの料理人を対象にした一方

ムッシュ村上は、家庭という分野にまでそれを広めたのだった。

後にムッシュ村上が語る「料理の大衆化」のため、西洋料理の味を覚えて貰うことで、西洋料理を食べる習慣が生まれ、それがレストランに行くという発想だった。

 

ムッシュ村上が、シェフという料理人というだけでなく、レシピを広めて、和洋融合オリジナルの料理を作るフードプロデューサーというだけでなく、世の中の人々の「食」に変革を起こしたという点で、「食」のビジネスプロデューサーと呼ぶべき人でもあるように思う。

 

「料理は愛情」

の言葉と共に、

「人生の幸福は健康」

それこそが、次世代のフードビジネスプロデューサーの役割でもあり、先代のビジネスプロデューサーからの遺言でもあるのかもしれない・・・

 

 

 

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